畑から拓き、ぶどうを育て、ワインを造ってきた
近鉄大阪線 安堂駅で駅員さんにカタシモワイナリーへの行き方を尋ねると、1枚の紙を手渡された。その紙には「カタシモワイナリーへようこそ」と書かれており、改札を出てからカタシモワイナリーまでの詳しい道のりがイラスト入りで示されていた。駅員さんはよく道を聞かれるらしい。
安堂駅から徒歩10分ほど、地図のおかげで迷うことなく到着。カタシモワイナリーは、古民家が立ち並ぶ歴史的な町並みが残る柏原市太平寺(かしわらし たいへいじ)地区にある。
カタシモワイナリーの4代目が高井利洋さん。カタシモワインフード株式会社の代表取締である。「昔は、合名山(ごうめいやま)のてっぺんから奈良の方までぜぇんぶ、ぶどう畑やった」。説明をしながら、急な斜面にあるぶどう畑を、慣れた足取りで登っていく。
開墾は曽祖父、醸造は祖父の代から
明治初期、利洋さんの曾祖父にあたる高井利三郎さんが大阪平野の堅下(かたしも)を開墾し、ぶどう栽培を開始した。大正3年(1914)には祖父、高井作次郎さんが果樹園経営のかたわらワインの醸造に成功し、カタシモワイナリーの前身となる「カタシモ洋酒醸造所」を設立した。まさしく100年続くぶどう畑、ワイナリー(ワイン醸造所)であり、現存するワイナリーでは西日本最古だ。
ぶどう畑は時代の波にもまれ、跡取りや働き手が減り、工場やマンションに変貌している。ワインの命はぶどうである。畦道を歩きながら利洋さんは、このぶどう畑の風景がないと地域を守ることもワインを守ることもできないのだと、思いの丈を語ってくれた。
「5~6年前までは、僕が最年少だったんや」。利洋さんは昭和26年(1951)生まれ。ぶどう栽培をしている農家の平均年齢は73歳だという。高齢化が、いかに深刻なのかわかる。
ぶどうづくりは大阪の一大産業であり、昭和初期には日本一のぶどうの産地だった時代もある。そのことを知る人は少なくなった。カタシモワイナリーは、100年以上続くぶどう畑をワインの力で次の100年へ繋ぐために奮闘している。
樹齢100年、古木が香る
「ここには宝物がいっぱいあるねん」。そう言って教えてくれたのは、明治の初期まで大阪で栽培されていた「紫ぶどう」である。明治9年(1876)に藤井寺の農業試験場へ甲州ぶどうが来る、その前から大阪で栽培されていたぶどうである。「こっちのぶどうはピンク色、こっちは真っ黒になるぶどうや。ここはシャルドネのぶどう棚、外国から見学に来た人らがびっくりするんやで」。
利洋さんは、ぶどう畑の景色があってこそのワイン造りだと考えている。それは、畑を守ることだけではない。樹齢100年越えの木を見せてもらった。古木から生まれるワインは香りがよく、エレガントな味がするという。
果実として食べるぶどうと違い、ワイン用に育てるぶどうは、どれも種を抜かない。種があることで、酸を残す。皮も、生食用に比べると厚い。ワインの渋味を出すのに重要なタンニンは、種や皮に多く含まれるためだ。
厳しい環境の下、4代目を継ぐ
3人兄弟の長男に生まれ、子どもの時から「かまどの灰までお前のもんや」と祖父母に言われていたという利洋さんだが、大学卒業後は神戸の会社に就職した。家業を継ぐつもりはなかった。「ほんまは、敵前逃亡したわけや」と笑う。
3代目である利洋さんの父はずいぶんと苦労をしており、その姿を何度も見ていた。昭和36年(1961)の第二室戸台風で、合名山の畑は壊滅的な被害を受けたという。「あの頃、温室栽培でパイナップルを栽培したこともあったんや。1個1500円もするパイナップルや。売れへんかったわ」。
ぶどう農家では採算が合わなくなり、醸造所の閉鎖も続いていた。しかし、長年ぶどう畑を守ってきた祖父が亡くなったことで、利洋さんに転機が訪れる。
柏原から、ぶどう畑の景色をなくしたらあかん
都市近郊にこれだけのぶどう畑があり、ワインが造られている場所は他になかなか見当たらない。「おやじは、僕が継がないのなら畑をつぶしてマンションを建てるつもりやったんや」。醸造所も減り続けている中、自分が継がなければ、ぶどう畑がなくなってしまう。険しい道のりを覚悟の上で後継者になる決意をする。1976年のことだ。
百貨店にワインを売り込んでも売れなかった分は返品される。東京に出向き、酒屋まわりをし、1ケースだけやっとのことで置いてもらう。しかし、3か月後には売れなかった分が返品される。打率は3割3分3厘と、厳しかった。やがて、今まで問屋中心だった販売方法を消費者に直接販売する方法へ方向転換していく。