大阪は「ぶどう県」である
正確には「県」ならぬ「府」であるが、大阪のぶどう生産は130年以上と歴史が深い。
明治17年(1884)に柏原市で本格的なぶどう栽培がはじまり、昭和初期には3年連続栽培面積日本一になるほどの大産地にもなった。いまでも大阪は全国7位のぶどう生産量、デラウェアの収穫量を見れば全国3位だ。他県の方には意外!と思われるかもしれないが、大阪農業のうりの一つである。
ここは、近鉄大阪線「河内国分」駅からすぐの柏原市国分東条町(かしわらしこくぶひがんじょうちょう)。天平13年(741)、聖武天皇が鎮護国家のため建立を命じた河内国分寺ゆかりの土地であり、大阪ぶどうの主要産地の一つだ。ここに、かつて日本一の産地と称えられた産地の再興を夢見るぶどう農家、乾健裕さん(35)がいる。
お笑い芸人をめざしたが…
ぶどう農家に育った健裕さんは、農業は「カッコよくない」。そう思って育った。健裕さんは小学5年生のとき、同級生の前でオモロイ話を披露していた。これが「腹が破れるほど」の大爆笑を巻き起こし、お笑いの道へと進ませるきっかけになった。
その他の職業には目もくれず、中学を卒業したら絶対芸人になるぞ! と決めてNSCこと吉本総合芸能学院をめざしたが、両親に大反対され断念。それでも諦めきれなかった健裕さんは地元の高校を卒業するや、NSC24期生になってお笑い芸人の道へ進んだ。
同期生には、「女と男」の和田ちゃんや「エハラマサヒロ」、ガンダムのアムロものまね「若井おさむ」がいる。健裕さんも芸人「いぬいくん」として、明日のダウンタウンやナインティナインを夢見て吉本興業の厳しい舞台に立ち続けた。「シビシビ」→「ケンスケユーコ」→「ラビッツ」→「野良犬ファンタジー」→「サンルーム」→「デジタルパーマ」と相方とネーミングを変えながらコンビも作った。
でも、「売れんかった…」。30歳、大阪市内某所の若手芸人御用達シェアハウスに居をかまえていた「いぬいくん」は悩んだ末、お笑い芸人の道を諦めた。鍛えたおしゃべりを活かして司会業やラジオDJをしようか? この際サラリーマンにでもなろうか? いろいろ考えたが、最後に思い浮かんだのは実家のことだった。
大阪府内で唯一のブドウ苗木生産者の父善彦さんは園の三代目、その長男が健裕さんだった。実家のぶどう農家を継ぐことができるのは自分しかいないと農業の道に入った。
「当たり前のこっちゃけど、頑張ってくれたらと思う」善彦さんはしみじみと当時を振り返る。お笑いから農業へ転身した健裕さんを温かく見守りながら、ぶどう農園の運営は健裕さんに任せ、果樹苗木の生産をメインに行なっている。
四代目になった健裕さんの新たな門出にふさわしく直売所も新築した。ぶどうハウスもさらに増やした。母の幸子さんや妻の賀奈子さんの支えもあり、乾のぶどうガーデンはこれからさらに盛り上がること間違いなしだ。