経験なし、農地なし、知人なしのスタート
大阪の最北端、京都と兵庫に囲まれた能勢町は、山林と田畑の町。この土地で農家経験なし、農地なし、知人なし、ゼロからのスタートで農家になったのが「成田ふぁーむ」の成田周平さん(41)だ。
成田さんの前職は、放送作家。テレビ番組の企画、構成、台本を書く仕事である。売れっ子放送作家の仕事をきっぱり辞め、農家になって8年。成田さんはいま有機農法で、少量多品目の野菜を育てている。取材に訪れた5月末の畑は、ちょうどズッキーニの収穫真っ盛りだった。
放送作家時代、出会った農家はみな楽しそうだった
成田さんが農家になろうと決意したのは09年の秋、30歳を過ぎた頃だ。当時、放送作家として抱えていた番組は、常に7〜8本という。なかなかの売れっ子だ。仕事は忙しかった。軌道に乗っていた時期だった。それを、なぜ辞めたのか。なにかあったのか。なぜ農家だったのか。次々、疑問が湧いてきた。
「取材でいろんなところをウロウロするでしょ。農家と話していると、みんな楽しそうだったんですよ」。ハバネロ農家を訪ねたときのこと。「ハバネロ食べてみっ、て言われてね。素直に食べたら、辛いわけです」。京都、亀岡の農家だった。
「辛っ、言うてびっくりしてたら、その姿を見てケタケタ笑ってるんです」。で、思ったそうだ。「なんだかすごく楽しそうや、農家になったら楽しく生きられるんじゃないかなって」。
放送作家生活は8年目を過ぎていた。仕事は忙しいし、楽しい。しかし40歳を過ぎてこのまま順調に行く保証はない。仕事が減っていく不安が先立った。契約は番組ごと、一つ番組が終われば、一つ仕事がなくなる。次、新しい契約があるかわからない。
定年はないが40を過ぎると、明暗が分かれ始める。50代、さらに活躍の場は限られていく。そんな業界である。この取材をしている私も同業者、成田さんの気持ちはよく分かる。
やるなら農業、自分で時間の都合がつく
そして、なにより楽しそうだ。農家になると決めた成田さんは、放送作家としてのすべての仕事を辞めた。思い切りがいい。その時点で、農業の知識はなかった。まず技術を学ぼうと考えたが、研修先すらあてがなかった。研修先が決まれば、研修先の近くに引っ越すことになるだろうと考え、賃貸マンションの契約先には3月で引っ越すことを告げてしまった。無謀だった。
農業ができるならどこでもいい。ネットで片っ端から研修生を募集している農家を調べた。締め切りに追われる生活を送っていただけある、行動は早かった。最初の行き先は、真冬の北海道、北見。雪だらけで、農作物はなかった。北見では、雑用だけを体験して終了。
次の行き先は、山梨県。2週間ほど研修した。農業をやっていけそうな気がしたが、ショックだったのは山梨では、関西の軽いノリがまったく通じないこと。面白くない、楽しくなかった。
農業やるなら、大阪や
結局、地方で農家になるのは諦め、関西弁の通じる地元で農家になろうと決める。大阪で研修先を探した。結果、「農の雇用事業」を活用して能勢町でトマト、キュウリ、コマツナ等の野菜、水稲を栽培している「株式会社原田ふぁーむ」に収まった。
めでたく3月の引っ越しに間に合い、4月からは能勢町近くの川西市へ引っ越した。川西にしたのは、電車で大阪市内へ行けるからだそうだ。
生活が変わり、体が変わる
「クワ1本持ったことがない、前の仕事と真逆の仕事でしょ」。研修生活、1年半で「100キロあった体重が80キロになりました」と、うれしそうに語る成田さん。
100キロの体重では体力的に不安だったらしい。農家になって、苦労したから痩せたのではない。朝5時前に起き、6時から畑で汗を流す、太陽を目いっぱい浴びる毎日。研修先では残業もない、夜は疲れて早く寝る。夜に食べたり飲んだりしなくなり、飲んだ帰りにラーメンを食べることもない。
農業技術は、白紙吸収
真夏のハウスで、汗だくになる。放送作家時代のように、深夜番組もない。健康的な生活になったからスリムになったのだ。現在も、体重は維持している。
技術も学んだ。農業の知識が白紙状態だったからこそ、素直に吸収できたという成田さん。自分が収穫したものを消費者に買ってもらえる、今まで味わったことのない喜びを知った。
消防団へ入る、仲間ができる
研修中に地元の消防団に入った。「農業をやるなら大阪」と決めた成田さんは、能勢で農業をやりたいと意思表明し、地域の若手農家の集まりにも参加した。知識ゼロでスタートした農業だったが有機野菜を覚え、野菜の栽培技術だけでなく農家仲間もできた。
初めての農地、初めての出荷
新規就農の場合、農地取得は簡単ではないが成田さんの努力が実る。2011年の春には「原田ふぁーむ」原田さんの親戚から25アールの農地を借りることができた。研修を続けながら、25アールの農地で、秋冬野菜のキャベツ、ホウレンソウ、コマツナを栽培した。
ハウスを建て、夏にはトマトも栽培した。初めて自分が借り受けた農地で栽培した野菜は無事、育った。原田ふぁーむの仲介で、出荷先も確保できた。