4世代、大家族で育つ
「やっと来てくれた」と明るく出迎えてくれたのは、兄・中出庸介さん。「やるやん!大阪さん、取材、待ちわびてましたよ」。真っ黒に日焼けした顔に半袖、半パン姿だ。「半パンで農作業。足出してたら、蚊に刺されませんか」と尋ねると「蚊も虫もお友だち、刺されるけどな」と豪快な答えが返ってきた。
中出農園は、兄・庸介さんが生産を、弟・達也さんが加工、販売を担当。兄弟で、協力し合いながら運営している。「5年前に比べて15キロも太ったよ」と言う庸介さんは、野球の強豪、大阪桐蔭の元球児。高校時代は寮に入り、野球漬けの毎日。夢はプロ野球選手だった。
中出兄弟は、曾祖父母、祖父母、両親、子ども3人が一緒に暮らす9人の大家族で育った。兄・庸介さんは、中学まで家が農家だと意識したことがなく、高校時代は野球一筋の寮生活。畑を手伝う機会もなく、自由気ままに学生生活を謳歌させてもらった。大学に進み、自宅から通うことになったとき初めて、家業が農家であることに気づく。
母を見て、農家になる
「毎朝3時30分に、目覚ましが鳴るわけですよ」。水なす農家の朝は早い。収穫は、朝の4時スタートだ。畑に出て戻れば、ご飯の支度、掃除に洗濯、あれやこれや。母は、休む暇がない。洗濯だけでも1日に3回、4回としなければ、追いつかない。今まで野球に明け暮れて来て、うちの家には畑がある、程度にしか考えていなかったのだ。寮を出て家へ戻り、母の大変さを理解した。
「おかん、フラフラになってる」。大学でも野球は続けていた。しかし高校時代に肩を壊していた庸介さんは、大学を辞め、農家になることを決意する。「おかんに少しでも楽させたい、それだけや、僕が農家になったのは」。庸介さん、20歳のときである。
貝塚の水なすは、じいちゃんが始めた
「貝塚市で初めて水なすを作ったのは、うちのじいちゃんなんです」。今から約60年前、昭和33年(1958)のこと、中出農園の創業者(当時の屋号は、まるなか)である祖父、中出幸夫さんが貝塚市で水なすの栽培・出荷を開始したと言う。
貝塚市澤地区で栽培されていた「澤なす」は、水なすの原種の一つとされる。幸夫さんは当時から自家採種しており、中出農園の水なすはそのタネを受け継いでいる。
60年、いいタネだけを自家採種
「うちの水なす、大きいでしょ。ええ水なすができるのは、ずっとタネ取りをしてきてくれたじいちゃんのおかげや」。中出農園の水なすは大きい。皮が薄く、水分が多い。灰汁はほとんどない。幸夫さんが作り始めた頃は、夏の水分補給に水なすを食べていたそうだ。
同じ頃、水なすの栽培・出荷を始めたのは3軒。幸夫さんを含む、澤地区の農家だ。タネは、岸和田市の種苗店から分けてもらったと言う。
幸夫さんが水なすを始めて60年以上、タネの自家採種は今も続く。とくに生育のよい水なすを選んで採種している。守り続けているタネがあるからこそ、水なすの出来にもぶれがない。
収穫開始は、朝3時半
生産から加工まで、徹底管理をおこたらない。収穫がない時期、水なす栽培は休もうと思えば休める。ところが、一切休まないという。水なすを見ない時期は、10月くらいだそうだ。「まあ、子どもと一緒にいる感じ」。確かに、子育てに休みはない。その10月でさえ、1日1回は必ず畑を回る。
出荷数が増えていく6月から9月末までは、収穫と水なす漬けの加工・販売に追われる。ピークとなる7月は、1日4000個をその日のうちに水なす漬けにし、配送している。
収穫は朝の4時半からだが、ピーク時は3時半から開始する。日が昇り、光が当たるとすぐに成長してしまうのが水なすだ。収穫してからも成長する。ヘタと実の境目が白くなっている部分は、水なすが成長した印だ。
水なすも、人間も一緒
年に2回、土壌分析を行う。重要な生産管理のひとつだ。ハウスごとに土壌をチェックし、土の状態に合わせて肥料や栽培を調整していく。以前、水なすの調子が悪くなったことがある。分析の結果、原因はカルシウム不足と判明。肥料会社のスタッフともよく連携する。
「水なすも、人間と一緒や」と言う庸介さん。作物を育てる土を知り、土ごとに整えて、健康状態をみていく。
中出農園の水なすは、すべてハウス栽培だが、無加温である。無加温なのに、収穫は2月末から。理由は、ハウスの立地にある。二色の浜(貝塚市)にほど近い場所にある中出農園は、水はけのいい砂地である。加えて、同じ貝塚市でも山側に比べて、気温が高い。加温なしで、ハウスを二重にしたり、トンネルをかぶせたりと細かい配慮を施すことで、早くから出荷できるのだ。